ミャンマー駐在体験談

ミャンマー政変後の状況を一人の日本人駐在員の視点で書くブログ

治安部隊による激しい弾圧と戒厳令

3月14日、ミャンマーの治安当局による弾圧が激しさを増した。弾圧は、市民が道路に設置したバリケードに火をつけて燃やすことから始まった。反政府運動は当初、市民が都心部や商業地などに集まり、抗議デモを行っていた。それを治安当局が、催涙弾、ゴム弾、最終的には実弾を使って、暴力的に弾圧してきた。そのため、市民は治安当局からの暴力を避けるため、道路にバリケードを築いて治安当局の侵入を防ぐ対策をとったうえで、商業地ではなく、住宅エリアで抗議デモ活動を行うようになった。そのため、ヤンゴン市内は、様々なところにバリケードが設置され、迷路のような状態となり、交通機能がマヒするようになった。そのような背景があり、治安当局は3月14日、道路に設置されたバリケードに火をつけて撤去する行動にでた。

このように、軍と警察による相当激しい鎮圧があった。治安当局は、当然バリケードを燃やすだけでは終わらず、市民に対して発砲も多数行い、ラインタヤーだけで少なくともとも20名、ヤンゴンで40名が犠牲となり、一日の死亡者としては2月1日のクーデター以降最大の数となった。負傷者も多数見込まれ、大変懸念される事態となった。

 それだけにとどまらず、同14日、ラインタヤー地区、シュエピター地区にある複数の工場等で放火が原因と見られる大規模な火災が発生した。複数の中国系の工場に火炎瓶が投げ込まれ、大規模な火災になった。放火犯は、治安部隊とも、デモ隊とも言われており、実行犯は不明のままだ。

こうしたことから、武力制圧を進める軍事政権は、3月14日夜、ラインタヤー地区とシュエピター地区に戒厳令を発令した。翌15日朝、さらに4地区に戒厳令が出され、ヤンゴン市内の6つのタウンシップに戒厳令が敷かれた。戒厳令発令の背景には、中国系工場が火災にあったことから、中国政府から治安維持を強力に進めるように圧力があったともいわれている。

3月15日朝のヤンゴンの様子↓↓↓

戒厳令という言葉は、歴史で学んだが、具体的には内容をよく理解していない。歴史上はどうだったか調べてみた。すると東京で戒厳令が発令されたのは、以下の3回。

  1. 1905年 9月6日 - 11月29日、日比谷焼打事件
  2. 1923年 9月2日 - 11月15日、関東大震災
  3. 1936年 2月27日 - 7月16日、二・二六事件

これは、もはや平時ではなく、戦時状況と言っていいだろう。

また、言葉の意味も辞書で調べてみた。大辞泉には、戒厳とは「戦時またはこれに準ずる非常事態の際、立法・行政・司法の事務の全部または一部を軍隊の手にゆだねること」とある。戒厳令が発令されたということは、軍隊がすべての権力を掌握し、市民の前に立ちはだかるということだ。軍隊が権力を掌握した地域では、今後もっと激しい弾圧が予想される。

現在のこの悲惨な状況を起こした原因を考えると、全て国軍に責任がある。市民がデモを起こしてこのような事態に至ったのではなく、国軍が民主政権をクーデターで倒したことが原因なのだから。

私の勤める工場は、戒厳令下のシュエピターにある。しばらく業務再開は不可能だろう。先行きが見通せない状況となった。