ミャンマー駐在体験談

ミャンマー政変後の状況を一人の日本人駐在員の視点で書くブログ

恐怖政治

最近のミャンマー国軍政府の行動から頭に浮かんだのが、今日の題目の「恐怖政治」という言葉だった。

大辞泉で「恐怖政治」を調べると以下のように書かれています。

  1. 投獄・拷問・脅迫・処刑などの暴力的な手段によって反対者を弾圧し、政治上の目的を達成する政治。
  2. フランス革命末期、1793年5月のジロンド派追放から1794年7月のテルミドールの反動まで。ロペスピエールらのジャコバン派によって行われた独裁政治。

1に書いてあることが、正に今、ミャンマーで行われている。前回のブログで書いたサイレント・ストライキでは、スーパーマーケット、コンビニエンスストアなどが一斉に店舗を休業した。その夜、ヤンゴン地域軍政府は、休業したスーパーマーケットやコンビニエンスストアの従業員100人以上を市民ホールに拘束した。理由は市民の呼びかけに同調し、ストライキを行ったためだ。最終的に一晩拘束し、翌日午後に解放された。ストライキを行う権利は、労働者に認められた権利のはずなのに、国軍政府は、そんなことお構いなしに拘束。基本的人権も、法に基づく支配も何もありはしない。

100人以上の小売業従業員が拘束されたニュース↓↓↓

このような政府の脅迫にあっているのは、小売業だけではない。銀行も同様だ。ミャンマー中央銀行は、民間銀行に対して、閉店を継続するならば、保有している全ての口座を、軍支配下の銀行に移管すると通達を発した。さらに、店舗の閉鎖を続けるなら、その規模に応じて店舗当たり200万~3000万チャット(15万円~230万円)の罰金を徴収すると発表し、民間銀行は店舗の営業を渋々再開させた。店舗の営業をするかしないかは、民間企業にその決定権があり、そのことに関して、政府が介入し、口座を軍支配下の銀行に移管するとか、罰金をとるなど、信じがたい暴挙だ。ヤクザ顔負けの脅迫だ。

民間銀行に罰金を科すというニュース↓↓↓

このように、国軍政府は、目的の達成のためなら、人の権利などお構いなしに、脅迫する姿勢を貫く。このような、やり方が長続きするとは思えない。それは歴史が物語っている。フランス革命時の「恐怖政治」も、約1年しか継続しなかった。ミャンマーの現在に直面している私からすると、1年というと長い感じがする。一方、歴史上の出来事としてとらえると、わずか1年の辛抱で事態が打開されるという見方もできる。

ここで、フランス革命時の「恐怖政治」を時系列で振り返ってみる。フランス初の共和政(第一共和政)が施行され、1793年1月に、かつての王様ルイ16世が処刑せれた。有名なギロチン処刑だ。その後、下層市民や農民の支持を得たジャコバン派が台頭し、イギリスを中心とした諸外国が結成した第1回対仏大同盟に対処するため権力を集める。そして、ロベスピエールが実権を握ると、公安委員会と革命裁判所に権力を集中し、ロベスピエールによる独裁(恐怖政治)が強化される。10月に王妃マリ=アントワネットが処刑されると、反対派のジロンド派指導者の処刑も続いた。すると、市民層の反感や独裁への不満が高まってくる。それに対して、公安委員会と裁判所の権力を握っているジャコバン派は、逮捕・処刑を繰り返す。最終的に、1794年7月にテルミドールのクーデタがおこり、ロベスピエールは処刑される。

恐らくミャンマーの現在の恐怖政治も、国軍リーダーのミンアウンフライン総司令官が退陣するまで続くだろう。退陣といっても、自ら引き下がるとは考えにくく、退陣の形としては、暗殺、逮捕、国外逃亡の3つくらいしか考えられない。だから私は、ミンアウンフライン総司令官が、暗殺、逮捕される、あるいは国外逃亡するまでは、恐怖政治は続くものと予想している。

フランスの政治は、ロベスピエールの処刑後どうなったかというと、独裁に懲りたフランスは、5人の総裁による総裁政府を設立して統治するようになる。その後はナポレオンによる第一帝政復古王政第二共和政第二帝政第三共和政と変遷し、第三共和政に落ち着くまで80年近くの年月がかかっている。ミャンマーも仮に国軍政権が倒されても、本当の民主化に向けては長い道のりが待ち受けている。