ミャンマー駐在体験談

ミャンマー政変後の状況を一人の日本人駐在員の視点で書くブログ

一時国外退避 (入国手続き備忘録)

日本の本社と協議した結果、ミャンマーの情勢を鑑みて、一時的にミャンマー国外に退避することにしました。コロナが流行していなければ、隣国タイのバンコクに一時的に身を置くことも可能だったと思いますが、コロナの流行により、日本以外に避難する場所がありません。そのため、日本に一時帰国します。あらためて国籍って大事だと感じました。私が日本国籍を持つ日本国民だから、日本政府はコロナの流行だろうが、何だろうが、外国から帰る私を受け入れてくれます。国家には国民の生命、財産を守る義務がありますから、当然といえば当然なのでしょうが、現在のミャンマーは違います。ミャンマーの軍事政権は、国民の生命を守るどころか、残虐に殺戮行為を行なっています。しかも民主的に選ばれた政権でもないのに。でも、どんなにその国の状態が破綻しても、国連などの国際社会が、その国家に介入することは難しいことなのだと、今回の件で痛感しました。結局、その国の問題は、その国の国民自らが解決せざるを得ないのです。人道的な支援を諸外国の支援団体が行ったり、非人道的政府にたいして国際社会がある程度の制裁を加えることはできても、最終的な解決は国民自らが行わざるを得ません。今回の混乱が落ち着くまでは相当な時間を要すると思われます。今回スーツケース2つを持って一時帰国し、様々な家財道具はミャンマーのアパートに置いたままですが、場合によってはミャンマーに置いてきた家財道具は捨てる覚悟で、本当に大事なものだけ持ち帰ってきました。

さて、今後ミャンマーから一時帰国する人の参考になるように、コロナ対策で通常と異なる煩雑になった入国手続きについて、自分の体験を交えながら書いていきます。今回は、ヤンゴンー成田の直行便が予約できず、シンガポール経由で帰国しましたので、経由便で帰国した場合の手順についてです。

外国から帰る場合には、PCR検査を出発国において搭乗時刻の72時間前に済まさせとく必要があります。ミャンマーの場合はPCR検査を行う施設が限られているため、出発国における検査がなくても、日本入国が可能です。その場合、日本入国後に政府指定の隔離施設に3日間隔離されることが義務化されています。私の場合は、その3日間の隔離を避けるために、ミャンマーPCR検査を行っている病院を探し、PCR検査後に登場しました。それでも日本入国後、14日間の自主隔離が求められています。

PCR検査が受けられずに帰国する場合は、日本大使館が発行する「領事レター」が必要になります。領事レターの申請は、搭乗の2日前(平日のみ)までに、日本大使館に連絡する必要があります。詳しくはこちら

 

以下に、ヤンゴンでのPCR検査から、日本入国までの流れを記載します。

搭乗日の前々日:午前中にヤンゴンInternational SOS Clinicで、PCR検査を受診。

搭乗日の前日:15時にSOSクリニックで、PCR検査の陰性証明書を受領。

搭乗日:6:20 ヤンゴンの自宅出発

ヤンゴン空港のゲート前に、警察の検問があり、運転手はIDの提供を求められます。

6:40 ヤンゴン空港到着 

7:10 チェックイン完了

通常チェックインカウンターは、フライト時間の3時間前くらいからしかオープンしていませんが、現在はかなり前から開いている模様。空港に早く到着する方が並ばなくていいかもしれません。

7:30 イミグレ通過し、セキュリティチェックを受け、ラウンジ到着

当然ですが、レストランや店舗は全て閉鎖。ラウンジに入れる人は、そこで飲食の提供を受けられます。また、1:00am-9:00amまでインターネット接続が遮断されているのは、空港内も同じですので、ラウンジでもその時間帯はインターネットは使用不可能です。

10:35 フライトは定刻通り出発

15:00 フライトは定刻通り、シンガポール到着

シンガポールでは、乗り継ぎ客のみ機内から先に降ろされます。

そして、乗り継ぎ客には、緑色のリボンが手首にまかれ、自由に行動できないように制限されます。新型コロナ感染対策のようです。

ビジネスクラス利用でも、ラウンジは利用できず、特設の待合所に待機することになります。待合所にはサービスする従業員はおらず、無人掃除ロボットが床掃除したり、食事を頼みたい場合は、QRコードを読み込んで、空港内のレストランからデリバリーを頼むシステムがあるので、それを利用することになります。快適ではありませんが、何とか乗り継ぎ時間をやり過ごすことはできます。もし長時間待機がつらいと思うならアンバサダーホテルを予約することをお勧めします。

22:40 定刻の1時間以上前にゲートに向かい、日本の入国時に必要なアプリのインストールの案内や必要な申告書を渡されますので、搭乗前にそういった手続きを完了させておくことをお勧めします。以下に事前準備の内容をまとめておきます。

必要なアプリ

①ダウンロード必須アプリ: ダウンロード必須アプリがあるので、事前にダウンロードしておくといいです。入国後の手続きがスムーズです。 以下のURLからご確認ください。 

https://www.mhlw.go.jp/content/000752493.pdf

②アンケート回答 厚労省のアンケートに事前に回答し、QRコードが発行されるので、画像を 保存してください。 アンケートは以下のURLで回答できます。 

https://www.ru.emb-japan.go.jp/qr-code.pdf

 

23:55 フライトは定刻通り、シンガポール離陸

翌日7:00 フライトは定刻通り、成田空港に着陸

 

成田空港での手続きの流れ

  1. 書類チェック :搭乗前に配布された資料に必要事項を記入し、到着後、係員によりチェック。
  2. ID番号決定 :1.の書類を窓口に提出。
  3. PCR検査 :唾液を採取されます。検査30分前の飲食はしないほうがいいです。検査官に30分以内に飲食したか聞かれます。機内での飲食(水も)は、着陸30分以上前に済ませておいた方が良いです。ただし、水分を摂取しておいたほうがいいと思います。ここで唾液が出ずに苦労している人もいました。梅干しやレモンの写真を見せられて、酸っぱいものを食べた気分になって唾液を出すように促されます。
  4. アプリインストール・QRコードチェック :次のステップに進む前に係員はQRコードをチェックしています。QRコードがない人はここでダウンロードさせられます。上記のアプリやアンケートのQRコードを事前に済ませておけばスムーズです。
  5. 書類チェックなど: 係員が書類チェックや、メール受信チェック、スカイプの通信確認なと、いくつかのステップがあり、ステップを進むたびに列に並びます。
  6. PCR検査待ち: 書類を提出し、PCR検査後に呼び出しされる番号を付与されます。だいたい30分程度イスに座って待機します。
  7. 検査結果通知 :検査結果が出た人から、6.で通知された番号で呼び出しされますので、陰性証明書をもらいに移動します。
  8. 入国審査 :陰性証明書を入国時に提示し、入国手続きが完了します。
  9. 荷物引き取り、税関申告、入国

あくまで上記は成田空港での流れです。私の場合は、フライト着陸が7:00で、税関申告が完了したのが9:30でしたので、2時間30分で済みました。 他の人の話を聞くと長くかかった方は5時間とか6時間かかった人もいるようです。

その後、公共交通機関の利用は不可能ですので、ハイヤー、レンタカー、どなたかの迎えの車を利用することになります。私は、Assist14という、ハイヤーと自主隔離ホテルがセットになったサービスを利用しました。自主隔離先は、15泊16日でマンスリーマンションに滞在し、公共交通機関での移動はできませんし、基本的に外出禁止です。自宅が日本にあるかたは、自宅での14日間自主待機も可能です。アプリでは、毎日数回滞在場所の確認をプッシュ通信する必要がありますので、散歩や必需品の買い物など多少の外出をしても問題なさそうですが、基本的には外出することが難しいです。

嘘と偽り

最近は毎日のように軍による無抵抗な市民への攻撃、暴行、略奪、不当逮捕というニュースを聞くことに慣れてきてしまい、何が起きても驚かなくなってしまった。しかし、4月1日に発生したヤンゴンの大規模商業施設2軒の火災は、何かスッキリしない、心に引っかかるものがあった。2件の火災は4月1日未明に発生し、放火事件だと見られている。放火にあった2件の商業施設は、国軍政府が保有している物件というところが不思議だ。国軍政府保有物件への放火犯が、抗議デモをする市民だったとしたら、動機があるので理解できる。ただし火災が発生したのは深夜で、市民は夜間外出禁止令(20時~5時)により、外出することができない。もし外出していたら、警察・軍によって射殺されてしまう。そのような危険を冒して、軍政府所有の商業施設を放火するという愚行を誰が冒すのだろうか。夜間に放火して逮捕・射殺される危険と、国軍に与えるダメージを天秤にかけたら、そのような危険を市民が冒すとは到底考えられない。どうやら、国軍による自作自演の事件というのが真相のようだ。市民が放火した事件と国内外にアピールするために、国軍自らが保有する商業施設に火を放ったようだ。その日はちょうどCNNのリポーターが取材にミャンマーに訪問していた時でもある。国軍は武力で市民を制圧していることを正当化するために、こうした自作自演のパフォーマンスを行っている。

3月半ばに戒厳令が発令されるきっかけとなった、数件の中国系工場への放火事件も動機は同じだ。国軍は市民の暴動を抑えるために、戒厳令を発し、国軍が全権を握ることにしたのだ。実際には、国軍が全権を握るためには、戒厳令を発する状況を作る必要があり、それを目的として、国軍が中国系工場へ放火したのだ。工場への放火は、ツィッターで写真が流通し、軍の仕業だということが確定的であるが、今回の商業施設への放火は、夜間のインターネット接続遮断と、モバイル通信の完全遮断により、犯人を特定されていない。国軍の行いは、極悪非道というほかない。

この事件で思い出したのが、太平洋戦争に入る前の日本陸軍が起こした1928年の張作霖爆殺事件と1931年の柳条湖事件の2つの事件だ。どちらも中国側の仕業だと発表するために、日本軍が自ら起こした。張作霖爆殺事件は、1928年6月満州の実験者である軍閥張作霖が乗った列車を爆破し、彼を殺害した事件だ。その後日本陸軍は、張作霖爆殺事件を中国国民政府側の仕業だと公表したが、国際的に疑惑を持たれた。さらに張作霖の子の張学良は、中国国民政府に忠誠を示し、中国側の抗日気運が一段と高まった。満州における日本の権益を強めようとしたが、却って国際的孤立と中国の反日感情を煽った日本の愚策だ。これに懲りず、1931年9月、瀋陽郊外の柳条湖で満州鉄道の線路を爆破する事件を起こした。日本陸軍はこの柳条湖事件を中国側の仕業と発表して、ただちに軍事行動を起こし、長春ハルビンチチハルなど次々と満州の主要都市を占領した。これが満州事変で、その後日本は国際連盟から脱退し、アメリカ・英国などの列強国の反発のなかで国際的に孤立していき、太平洋戦争へ突入し、敗戦という結末に至る。嘘や偽りは、どんなに取り繕っても、いずれ露見するものだ。露見せずとも、疑惑を持たれれば、不利になることは間違いない。ミャンマー国軍政府の嘘と偽りは、いずれ大きな代償となるはずだ。

太平洋戦争の初期に、ビルマは英国の植民地支配から独立するために、日本軍の協力を得た経緯がある。その当時ビルマ軍は、日本軍から軍務に関することを多く学んだようだ。だからといって、日本軍が行った愚行までマネする必要はない。

 

血の日曜日事件

2月1日のクーデター発生から、2か月が経ったが、全く事態が改善せず、状況は悪化の一途を辿っている。3月27日の国軍記念日には、100人以上の市民が治安部隊の弾圧によって死亡した。下のツィッターによると、2月1日から3月29日の57日間で550人が死亡し、そのうち15人が6~15歳の子供だ。

このような、無抵抗の市民を虐殺する事件は、過去にもあった。1905年にロシアのサンクトペテルブルクで発生した「血の日曜日事件」を思い出し、歴史の本を読み直してみた。未来を知るためには、過去の歴史に学ぶのが一番だと考えている。人間という生き物は、時代が変わっても本質的にはあまり変わらず、似たような状況であれば、似たような行動をするものだと考えているので、未来を予測するには、過去の歴史を参考にするというのが、私の持論だ。著名な政治家も、歴史に学ぶということを発言している。ドイツの宰相ビスマルクが言った「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は有名だ。ドイツの首相ワイツゼッカーは、「過去の歴史に盲目なものは、現在においても盲目である」という発言をしているし、イギリスのチャーチル首相は、「過去を広く深く見渡すことができれば、未来も広く深く見渡すことができるであろう」と発言している。そこで、今回は、治安部隊が無抵抗の市民を虐殺した「血の日曜日事件」の後、ロシアがどうなったのか歴史を振り返ってみる。

血の日曜日事件」とは、1905年1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、労働者やその家族約10万人が皇帝に労働時間の短縮や戦争の中止を求めた平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。この事件によって、ロシア皇帝ニコライ2世への崇拝の念は大きく揺らいだ。この事件に抗議した労働者が、全国各地でストライキを決行し、被抑圧民族や農民も蜂起した。こうして、第1次ロシア革命が進んでいく。また、皇帝への崇拝心の低下は、兵士の厭戦気分にも拍車をかけ、奉天回線の敗北、バルト海艦隊の壊滅、ポチョムキン号で水平の反乱などが起きた。10月に大規模なゼネストが発生し、皇帝ニコライ2世は、国会(ドゥーマ)の開設と市民的自由を認めるに至った。しかし、それで国民が平静を保つようなことはなく、増大する社会不安の中で、革命思想を持つ国民が多く、テロリズムも横行し、ロシア帝国では多くの政治家が暗殺され、危機的な状況になっていった。1907年6月3日、ストルイピンがクーデタを起こし、首相に就任することで、第1次ロシア革命が終焉した。そして、ストルイピンは、「まずは平静を、しかる後改革を」と訴え、農奴解放や、言論・集会の自由を拡大するなど融和的な改革を実行した。その一方、革命運動を激しく弾圧し、多くの運動家を絞首刑に処した。最終的にストルイピンは、1911年に暗殺された。

当時のロシアと、現在のミャンマーを一緒に考えるわけにはいかないが、大多数の国民の政治不信と、武力により国民を弾圧する政府という対立構造は同じだ。政治体制を変える誰かが出現しないと、状況は変わらないだろう。期待できるのは、アウンサンスーチーの政党の流れをくむCRPH*1しかいない。また、ロシア皇帝が国会の開設を認めるなどの妥協したように、国軍政府が何か妥協しないと状況に変化はないだろう。国軍政府が妥協しない場合は、国連やアメリカを始めとする西欧諸国がCRPHを支援しないと事態は進展しないだろう。

また、血の日曜日事件から、「まずは平静を、しかる後改革を」と訴えるストルイピンが首相に就きロシア第1革命が終焉するまで、2年半もかかっている。ミャンマーの現在に置き換えると、3月27日の国軍記念日の虐殺から2年半というと、2023年9月ということになる。事態打開までそのくらいの期間がかかると見るべきだと思う。

 

参照書籍:詳説 世界史研究 (山川出版社

 

*1:連邦議会代表委員会Committee Representing Pyidaungsu Hluttaw)は、ミャンマー連邦議会の議員が組織したミャンマー臨時政府国民民主連盟(NLD)を中心とする2020年11月の総選挙で選出された議員によって構成

2021年3月27日 国軍記念日

3月27日は、国軍記念日で軍事パレードが行われた。この日に向けて、ミャンマーの治安部隊は、市民の抗議デモに最大限の警戒をしていた。前日の26日には、国営テレビを通じて、恐ろしい警告を発していた。その内容は、「外で抗議デモをするなら容赦なく背中や頭に撃つ」というものだ。

国営テレビによる警告↓↓↓

国軍記念日の3月27日には、少なくとも114人が治安部隊の発砲によって死亡した。国軍記念日に、国軍は自国民を無差別に殺す行為を繰り返した。死亡した者の中には、子供も含まれている。ミャンマーは、政府が組織する「治安部隊」が、殺人を繰り返すというとんでもない世界に変貌した。

3月27日に死亡した地域別の人数↓↓↓

下のツイッターにある、防犯カメラの映像は、国軍の異常な行為をまざまざと見せつけている。抗議活動など全くしていない、ただバイクに乗っていた一般市民に、躊躇なく発砲している。これでは、街を歩くだけで死亡するリスクがある。

また、27日午後に、アメリカ大使館の隣にあるアメリカンセンターという施設に向けて4発の発砲があった。犯人は特定できないが、国軍政府に対して制裁を科すアメリカの施設に向けて発砲するのだから、間違いなく、軍か警察の仕業だ。軍や警察が無法状態に置かれていると言わざるをえない。

アメリカンセンターへの発砲↓↓↓

国軍記念日に起こるであろう最悪の事態を想定したアメリカ政府は、ミャンマーに住むアメリカ市民に対して、ミャンマーの現状を丁寧に説明し、3月27日には家から一歩も出ないように、警戒を促すメッセージを、前日の26日にWEBサイトで発信していた。そのおかげか、アメリカンセンターの銃撃事件では、死傷者が発生せずに済んだ。さらに、アメリカ大使館は、アメリカ市民にミャンマーへの渡航中止と、ミャンマーからの国外退避の勧告を発し、危険情報を最高のレベル4としている。日本大使館の対応とは大違いだ。日本大使館が発している警戒レベルは、レベル2と2段階も下で、不要不急の渡航を止めるように通知しているに過ぎない。3月18日のフライトで、新たにミャンマーに着任した日本人駐在員もいるほどだ。3月20日に、ある1人の新任者から私に着任の挨拶のメールが届いたので驚いてしまった。日本政府の対応には、あきれてものも言えない。

アメリカ大使館が、米国市民に対して国外退避を促すメッセージ↓↓↓

国軍記念日を境に、ミャンマーはますます危険な状況になりそうだ。そうした危険な状況を作っている国軍政府のトップであるミン・アウン・フライン総司令官は、そんなこと全く意に介さないようなスピーチを国軍記念日に行った。スピーチで彼は、選挙の不当性を訴え、クーデターを正当化し、選挙後は権力を移譲すると主張した。 さらに、市民の抗議デモについては、「国家の安定と治安を脅かす可能性のあるテロ行為」は容認できないと警告し、「法が尊重されず、侵害されるなら、われわれが望む民主主義は無秩序なものになる」と述べた。明らかに国家の安定と治安を脅かしてテロ行為を行っているのは国軍や警察で、法を尊重せず、侵害し、民主主義を無秩序なものにしているのは、今の国軍政府だ。ミン・アウン・フライン総司令官は、どうやったら、そんな曲解ができるのだろうか。

それにしても、日本政府はだらしがない。このような状況になっても、自国民に対して国外退避勧告も出せないし、ミャンマー国軍政府に対する経済制裁もできない。特に、ミン・アウン・フライン総司令官の主張する選挙の不当性については、反論することがあるだろう。2020年11月に実施された総選挙で、日本財団笹川陽平は日本政府の選挙監視団の団長を務めた。その際、日本政府はこの選挙で二重投票防止のために特殊インクを供与するなど約1億8000万円の支援を実施した。さらに、選挙結果も「おおむね平穏」(外務省報道官談話)と認めていた。笹川氏は、選挙監視団の団長だったのだから、自ら監視した選挙で大規模な不正があったとする国軍に対して、論拠を質し、抗議するのが筋ではないのか。日本政府には、まだやれるべきことが多々あるのではないだろうか。

 

恐怖政治

最近のミャンマー国軍政府の行動から頭に浮かんだのが、今日の題目の「恐怖政治」という言葉だった。

大辞泉で「恐怖政治」を調べると以下のように書かれています。

  1. 投獄・拷問・脅迫・処刑などの暴力的な手段によって反対者を弾圧し、政治上の目的を達成する政治。
  2. フランス革命末期、1793年5月のジロンド派追放から1794年7月のテルミドールの反動まで。ロペスピエールらのジャコバン派によって行われた独裁政治。

1に書いてあることが、正に今、ミャンマーで行われている。前回のブログで書いたサイレント・ストライキでは、スーパーマーケット、コンビニエンスストアなどが一斉に店舗を休業した。その夜、ヤンゴン地域軍政府は、休業したスーパーマーケットやコンビニエンスストアの従業員100人以上を市民ホールに拘束した。理由は市民の呼びかけに同調し、ストライキを行ったためだ。最終的に一晩拘束し、翌日午後に解放された。ストライキを行う権利は、労働者に認められた権利のはずなのに、国軍政府は、そんなことお構いなしに拘束。基本的人権も、法に基づく支配も何もありはしない。

100人以上の小売業従業員が拘束されたニュース↓↓↓

このような政府の脅迫にあっているのは、小売業だけではない。銀行も同様だ。ミャンマー中央銀行は、民間銀行に対して、閉店を継続するならば、保有している全ての口座を、軍支配下の銀行に移管すると通達を発した。さらに、店舗の閉鎖を続けるなら、その規模に応じて店舗当たり200万~3000万チャット(15万円~230万円)の罰金を徴収すると発表し、民間銀行は店舗の営業を渋々再開させた。店舗の営業をするかしないかは、民間企業にその決定権があり、そのことに関して、政府が介入し、口座を軍支配下の銀行に移管するとか、罰金をとるなど、信じがたい暴挙だ。ヤクザ顔負けの脅迫だ。

民間銀行に罰金を科すというニュース↓↓↓

このように、国軍政府は、目的の達成のためなら、人の権利などお構いなしに、脅迫する姿勢を貫く。このような、やり方が長続きするとは思えない。それは歴史が物語っている。フランス革命時の「恐怖政治」も、約1年しか継続しなかった。ミャンマーの現在に直面している私からすると、1年というと長い感じがする。一方、歴史上の出来事としてとらえると、わずか1年の辛抱で事態が打開されるという見方もできる。

ここで、フランス革命時の「恐怖政治」を時系列で振り返ってみる。フランス初の共和政(第一共和政)が施行され、1793年1月に、かつての王様ルイ16世が処刑せれた。有名なギロチン処刑だ。その後、下層市民や農民の支持を得たジャコバン派が台頭し、イギリスを中心とした諸外国が結成した第1回対仏大同盟に対処するため権力を集める。そして、ロベスピエールが実権を握ると、公安委員会と革命裁判所に権力を集中し、ロベスピエールによる独裁(恐怖政治)が強化される。10月に王妃マリ=アントワネットが処刑されると、反対派のジロンド派指導者の処刑も続いた。すると、市民層の反感や独裁への不満が高まってくる。それに対して、公安委員会と裁判所の権力を握っているジャコバン派は、逮捕・処刑を繰り返す。最終的に、1794年7月にテルミドールのクーデタがおこり、ロベスピエールは処刑される。

恐らくミャンマーの現在の恐怖政治も、国軍リーダーのミンアウンフライン総司令官が退陣するまで続くだろう。退陣といっても、自ら引き下がるとは考えにくく、退陣の形としては、暗殺、逮捕、国外逃亡の3つくらいしか考えられない。だから私は、ミンアウンフライン総司令官が、暗殺、逮捕される、あるいは国外逃亡するまでは、恐怖政治は続くものと予想している。

フランスの政治は、ロベスピエールの処刑後どうなったかというと、独裁に懲りたフランスは、5人の総裁による総裁政府を設立して統治するようになる。その後はナポレオンによる第一帝政復古王政第二共和政第二帝政第三共和政と変遷し、第三共和政に落ち着くまで80年近くの年月がかかっている。ミャンマーも仮に国軍政権が倒されても、本当の民主化に向けては長い道のりが待ち受けている。

サイレント ストライキ

クーデター発生後のミャンマーでは、軍や警察などの治安部隊のことを、テロリストと呼んでいる。特に最近の治安部隊は、市民に対して残虐な虐待行為を繰り返し、治安部隊自らがミャンマーの治安を乱し、テロリストと呼ぶに値する行動をしている。当初は、デモ参加者に放水やゴム弾の発砲で取り締まる行為だったが、すぐにゴム弾が実弾に変わった。武器を持たない平和的なデモに対して実弾を発砲するので、とても許されるものではない。さらに最近はますますエスカレートしている。特に3月23日にツイッターで流れた7歳の女児が射殺された事案は、テロリストを通り越して、鬼畜の所業だ。この女児は、マンダレーの自宅にいたところ、治安部隊の銃撃が始まり、流れ弾に当たって出血多量で亡くなったということだ。家にいても殺されるなんて、ミャンマーに安全なところは無くなってしまった。マンダレーでは、私の会社の取引先従業員も、帰宅途中に銃で頭を撃たれて亡くなった。昨日は当社の従業員が喫茶店にいたところ、喫茶店にいた客全員が逮捕されるという事態に巻き込まれ、当局に拘束されてしまった。マンダレーでは普通の生活すらできない状況で、マンダレーの治安部隊は、かなり異常な集団だ。

7歳児童射殺事件(センシティブな写真を含む)↓↓↓

Julia Pan Phoo on Twitter: "Terrorist military killed 7 years old kid named Ma Khin Myo Chit in Aung Pin Lal, Mandalay, in the evening of 23rd March.
#WhatsHappeningInMyanmar
#Mar23Coup
#WeNeedR2PInMyanmar… https://t.co/WQ1YbWrwiy"

3月22日には、マンダレーでは14歳と15歳の少年が、治安部隊の銃撃で命を落とすという事案もあった。またヤンゴンでは、治安部隊が店の商品棚を壊し、商品を盗み、最後に防犯カメラを壊そうとする行為を防犯カメラが捉えていた。さらに、市民が撮影した同じヤンゴン市内の映像では、治安部隊が配備したブルドーザーが市民の車を次々と押しつぶす様子が映っている。

14歳の少年のお葬式↓↓↓

治安部隊が店舗で盗みを働く様子↓↓↓

ブルドーザーで車をつぶす様子↓↓↓

 治安部隊が一般市民の屋台を破壊した↓↓↓

このように、ミャンマーの治安部隊は、もはや強盗殺人及び器物損壊罪で逮捕されるべき犯罪人集団だ。国民からテロリストと呼ばれるのも致し方ない。治安部隊の無差別な暴力により、2月1日のクーデター発生後、実に300人もの市民が犠牲になっている。

死者数の推移↓↓↓

こうした治安部隊によるデモに参加していない一般市民への暴力は、全ての国民を心理的に追い詰めて、抗議活動を停止させることが目的だと思われる。結果として、恐怖心から抗議活動に参加する人の数は減少傾向にあり、いったん抗議活動を停止する地域も出ている。私の住むヤンゴンの市街地では、明らかに路上でのデモが無くなった。しかし、人の心は暴力では変えられない。デモ活動はせずとも、軍事政権に対する抗議の意思に変わりはなく、デモ活動をする代わりに、ろうそくを灯したり、看板や果物などを抗議文などとともに置いた「無人デモ」も目立ち始めた。

看板などを置いた無人デモ↓↓↓

3月24日は、サイレント・ストライキ・デーと名付けられ、No Car, No People and No Shop, Only Stay Homeという、キャンペーンが実行されている。誰がリーダーというわけでもなく、サイレント・ストライキをやるという情報が、ツィッターフェイスブックで流れると、国民のほとんどが共感して、全てのお店、企業、工場が操業を止め、誰一人として、街を歩く人がいない状況になった。名前の通り、静かなストライキの実行だ。

街の様子↓↓↓

国民の軍事政権に対する反対の意思はとてつもなく強い。リーダーがおらず、誰が決めたわけでもない、サイレント・ストライキを、国民1人1人が、企業も一緒になって、ミャンマーにいる人々全員が、まるで1つの意思を共有するかのように、一斉に街から姿を消し、家に閉じこもった。普通考えられないことだ。想像してほしい。新型コロナが流行した時、日本ではどうだったか?政府がいくらステイ・ホームと呼びかけても、街に出かける人がいた。パチンコを止められない人は特に象徴的で、テレビのニュースで連日報道された。それなのにミャンマーでは、政府からの強制でなく、ツィッターフェイスブックで流れた情報に共感して、誰も街に繰り出さない。まさに国民が一枚岩になっているのを目の当たりにし、国民を応援する気持ちが一層強くなった。

クーデター発生からもうすぐ2か月になろうとしているが、全く出口が見えない。政府は弾圧を続け、国民は反発を強め、治安は悪化し、経済は回っていない。軍事政権が疲弊して政権奪還をあきらめるのか、国民が疲弊して軍事政権に妥協するのか、このどちらかしかないと思うのだが、この国の行方が全く見えてこない。

戒厳令下のヤンゴン

3月14日、15日に、ヤンゴン市内6地区(フラインターヤー、シュエピーター、新ダゴン(北)、新ダゴン(南)、ダゴンセイッカン、北オカラッパ)に対する戒厳令を発令し、ヤンゴン軍管区司令官に行政権及び司法権を委譲する旨が、国営放送を通じて発表された。この6地区に対する弾圧の動きが激しさを増し、治安当局である軍や警察の車両が、同地区に集結し始めた。治安当局は、ハンドスピーカーで、以下の警告を当該地区住民に対して発している。

  1. 夜7時~朝5時までの外出禁止
  2. 道路バリケードの設置及び放置の禁止
  3. バイク走行の禁止
  4. 1~3を違反したものには、容赦なく発砲する

特に2については、バリケードが道路あると、バリケードを設置したのが誰であれ、そこの住民にはバリケードを撤去する義務があるため、バリケードがあるだけで、近隣住民の家宅捜索をし、逮捕するという暴挙に出るそうだ。

戒厳令が発せられた地域の様子↓↓↓

治安部隊の警告アナウンスの様子↓↓↓

政府や警察が市民に対して行っているこうした行為は、まるで暴力団かマフィアのような行為だ。警察に安全を脅かされた戒厳令下の6地区の住民は、一斉に地方に退避し始めた。

私の勤める工場が、戒厳令下にあるため、かなりの従業員が地方に避難した。とても稼働を開始することなど考えられる状況にない。いつから仕事は開始できるのか、全く目途が立たなくなった。

次は、私のような外国人だが、当然外国人も避難を考え始める。中国系の工場が放火にあったことから、かなりの人数の中国人が国外退去したようだ。日本人は、そこまで一挙に退避を考えていないようだが、4月の全日空のフライトを確認すると、全便満席になっていた。国外退避する日本人が多いだけでなく、新型コロナの影響で4月の全日空のフライトが5便しか飛んでないというのも、全便が満席となってしまう原因の一つだ。私は、念のためシンガポール経由のフライトを予約した。4月のシンガポール航空はフライトスケジュールが確定していないため、まだ仮予約の状態。4月上旬のヤンゴンの状況を確認して、国外退避するか、ヤンゴンに留まるか判断する。

このように外国人のみならず自国民も退避を始めるような状況になっても、国連•国際社会は有効な手立てがなく傍観するばかり。解決する日がいつか来るのだろうか。