ミャンマー駐在体験談

ミャンマー政変後の状況を一人の日本人駐在員の視点で書くブログ

血の日曜日事件

2月1日のクーデター発生から、2か月が経ったが、全く事態が改善せず、状況は悪化の一途を辿っている。3月27日の国軍記念日には、100人以上の市民が治安部隊の弾圧によって死亡した。下のツィッターによると、2月1日から3月29日の57日間で550人が死亡し、そのうち15人が6~15歳の子供だ。

このような、無抵抗の市民を虐殺する事件は、過去にもあった。1905年にロシアのサンクトペテルブルクで発生した「血の日曜日事件」を思い出し、歴史の本を読み直してみた。未来を知るためには、過去の歴史に学ぶのが一番だと考えている。人間という生き物は、時代が変わっても本質的にはあまり変わらず、似たような状況であれば、似たような行動をするものだと考えているので、未来を予測するには、過去の歴史を参考にするというのが、私の持論だ。著名な政治家も、歴史に学ぶということを発言している。ドイツの宰相ビスマルクが言った「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」は有名だ。ドイツの首相ワイツゼッカーは、「過去の歴史に盲目なものは、現在においても盲目である」という発言をしているし、イギリスのチャーチル首相は、「過去を広く深く見渡すことができれば、未来も広く深く見渡すことができるであろう」と発言している。そこで、今回は、治安部隊が無抵抗の市民を虐殺した「血の日曜日事件」の後、ロシアがどうなったのか歴史を振り返ってみる。

血の日曜日事件」とは、1905年1月22日、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで、労働者やその家族約10万人が皇帝に労働時間の短縮や戦争の中止を求めた平和的な請願行進に対し、政府当局に動員された軍隊が発砲し、多数の死傷者を出した事件。この事件によって、ロシア皇帝ニコライ2世への崇拝の念は大きく揺らいだ。この事件に抗議した労働者が、全国各地でストライキを決行し、被抑圧民族や農民も蜂起した。こうして、第1次ロシア革命が進んでいく。また、皇帝への崇拝心の低下は、兵士の厭戦気分にも拍車をかけ、奉天回線の敗北、バルト海艦隊の壊滅、ポチョムキン号で水平の反乱などが起きた。10月に大規模なゼネストが発生し、皇帝ニコライ2世は、国会(ドゥーマ)の開設と市民的自由を認めるに至った。しかし、それで国民が平静を保つようなことはなく、増大する社会不安の中で、革命思想を持つ国民が多く、テロリズムも横行し、ロシア帝国では多くの政治家が暗殺され、危機的な状況になっていった。1907年6月3日、ストルイピンがクーデタを起こし、首相に就任することで、第1次ロシア革命が終焉した。そして、ストルイピンは、「まずは平静を、しかる後改革を」と訴え、農奴解放や、言論・集会の自由を拡大するなど融和的な改革を実行した。その一方、革命運動を激しく弾圧し、多くの運動家を絞首刑に処した。最終的にストルイピンは、1911年に暗殺された。

当時のロシアと、現在のミャンマーを一緒に考えるわけにはいかないが、大多数の国民の政治不信と、武力により国民を弾圧する政府という対立構造は同じだ。政治体制を変える誰かが出現しないと、状況は変わらないだろう。期待できるのは、アウンサンスーチーの政党の流れをくむCRPH*1しかいない。また、ロシア皇帝が国会の開設を認めるなどの妥協したように、国軍政府が何か妥協しないと状況に変化はないだろう。国軍政府が妥協しない場合は、国連やアメリカを始めとする西欧諸国がCRPHを支援しないと事態は進展しないだろう。

また、血の日曜日事件から、「まずは平静を、しかる後改革を」と訴えるストルイピンが首相に就きロシア第1革命が終焉するまで、2年半もかかっている。ミャンマーの現在に置き換えると、3月27日の国軍記念日の虐殺から2年半というと、2023年9月ということになる。事態打開までそのくらいの期間がかかると見るべきだと思う。

 

参照書籍:詳説 世界史研究 (山川出版社

 

*1:連邦議会代表委員会Committee Representing Pyidaungsu Hluttaw)は、ミャンマー連邦議会の議員が組織したミャンマー臨時政府国民民主連盟(NLD)を中心とする2020年11月の総選挙で選出された議員によって構成